よい家の条件を考える
本当の100年住宅とは?
自己表現の場であるからこそ、どうせ家をつくるなら「よい家を建てたい」と願うのは当然です。しかし、「よい家」と一口にいいますが、何がよい家かを決めるのはとても難しいのです。昔、エノケンが唄って一世を風靡した「私の青空」という歌の中に「狭いながらも楽しい我が家……」という一節がありますが、たとえ狭くて貧しくとも、家族が楽しく心地よく住めるなら、それは「よい家」といえるでしょう。逆に、どんなに贅を尽くした豪華な家でも、そこに暮らす人たちが角突き合わせていがみ合っているのであれば、決して居心地のよい家とはいえません。
「よい家」を紹介する本には、「建築家が建てた家」とか「100年住宅」とか、「高気密・高断熱の家」といったさまざまな表現が用いられています。たしかにデザイン、耐久性、省エネ性などは家を評価する上で大事な要素ですが、だからといって、これらの要素を満たしていればよい家なのかというと、いささか短絡にすぎます。いうまでもなく、家のよし悪しは家を取り巻く自然環境、コミュニティの性格、交通の便や教育環境などの社会条件によっても大きく左右されます。つまり、「箱」としての住宅の価値はさして意味を持たないということです。アメリカでは安全性と景観が家の値打ちを決める要素として重視されていますが、日本でも、高級住宅街といわれる住宅地には文教地区とかお屋敷町といった、その土地の環境条件が尺度になっていることは周知の事実です。
建設省(現在の国土交通省)が定めた「品確法」(住宅品質確保促進法)による住宅の性能表示制度は、住宅の耐久性、耐火性、耐震性など九項目の性能について検査認証して等級をつけるものですが、この等級づけについては専門家の間でも疑問をもたれています。建前としては住宅建設のばらつきを是正し、一定品質の住宅を需要者に供給する目的で作られた制度ということなのですが、それならば、住宅金融公庫がガイドラインとして出している標準仕様を遵守することで十分に目的は達成できるはずです。そもそも家の質を評価し、等級をつけることにどんな意味があるのでしょうか。こうした公による画一的な等級づけは、消費マインドをゆがめ、需要者心理をあおることにつながる恐れもあります。また、家づくり文化の面でも、地域で育くまれた多様な施工法や技術を活かすことができず、そこから逸脱したものを排除するといった可能性もあります。
このような矛盾は、100年住宅といわれる住宅についてもいえます。100年住宅といわれる商品の特徴は、堅牢な建材と耐久性を追求した工法の組み合わせで、関東大震災超級の地震にもびくともしない家づくりを目指している点にあります。しかし、「箱」としての住宅が100年間耐えたからといって100年住宅とうたえるのでしょうか。だいたい現代の日本で、築100年以上もの旧い家に住んでいる人が何人いるでしょう。とくに現在のように物事の変化が速い時代における100年という長さは、過去の時代の数世紀分にもあたります。価値体系や技術の変化も急速で、新しいものもすぐに陳腐になってしまう、現在の時代感覚でデザインされた住宅が100年の時空に耐えるのは容易なことではありません。
つまり、「100年住宅」を標榜するからには、耐久性はむろんのこと、100年という時間に耐えるデザインと機能、そしてその間の増改築に対応する設備、備品、技術、経営のストック、そのすべてを兼ね備えていなければならないのです。最近、雪印食品を初め食肉業者が起こした商品表示詐称事件は、何も食品に限ったことではなく、あらゆる商品に対して、またその製造者に対して問われている問題です。魅力的な言葉で消費者の関心を集める商法が氾濫する時代にあって、情報の真贋は私たち自身が見分けなければなりません。流行の思想やデザインに飛びついても、10年も経てば色あせた魅力のないものになるかもしれません。自動車や洋服ならそれでいいかもしれませんが、家となるとおいそれと建て替えることはできません。いろいろな情報に惑わされず自分自身の価値観をしっかりもつことが、理想の家にめぐり合うための条件なのです。
問題を招く「LDK幻想」
新潟で起きた九年間にも及ぶ少女誘拐監禁事件はまだ記憶に新しいと思いますが、この事件は、家のつくり方に大きな問題があるとして注目を集めました(図4)。また、芥川賞作家の藤原智美さんが書いた異色の家づくり読本『家をつくるということ』の中でも、東京湾岸地域で起きた少女のドラム缶コンクリート詰事件、あるいは四人の子供を殺害した宮崎勤事件などが家づくりとの関連で紹介されています。
家のつくり方が人間の精神にどのような影響を与えるかは一様ではありません。しかし、空間が人間の行動に影響を与えるのは事実です。人間工学では快、不快を感じる空間の研究が進んでいますし、社会学の分野でも人間関係をテリトリーの概念で捉える研究が進んでいます。家族といっても、人格を異にする人間の集まりです。そこに住む人間が環境によって影響し合うのは当然でしょう。
近年、そうした考えのもとに、子供部屋の問題、独立キッチンの問題、夫婦別室の寝室など、住空間の考え方についていろいろな議論がなされています。
たとえば、子供に個室を与えることは、子供を一人の人間として認め、独立した領域を与えることを意味します。その代わり、この領域での生活はすべて子供自身が責任をもち自立して行う、部屋の飾りつけも清掃も整理整頓もすべて自己責任で行うというのが欧米でいうプライベートルームのルールです。このようなルールの前提があって、初めて個室の子供部屋が成立するのです。同様に、家の空間の構成にもその空間をよりよく機能させるためのルールがあります。
現在の日本の住宅はいわゆるLDKで象徴される和洋折衷住宅ですが、それぞれの部屋のもつ性格や使い方のルールはいまだ確立していません。それどころか、ややもすればLDKという概念に振り回されて、部屋数やリビングの広さにこだわったりします。先に挙げた藤原智美さんの本の中で、金属バットで親を殴り殺した子供の部屋について興味深い記述がありました。犯人の少年は、他の兄弟と同じように独立した個室を与えられてはいたのですが、その部屋は場合により通路としても使われ、家族は無神経に彼のテリトリーを侵すことがあったというのです。
日本家屋は上座、下座といった言葉があるように、家族内の序列や客のもてなしなど、一定の規範のもとに空間が構成されていて、長い間日本人はその空間認識によって生活してきました。ところが、現在、私たちが生活している住宅は西洋型の個人主義と日本の伝統的な空間認識を混在させた不思議な空間です。一方で個室を与えながら、一方で個人のプライバシーを無視するような矛盾したことを平気で行っていて、無意識の内に家族関係を壊したり、子供を犯罪に追いやる結果を招いています。今や私たちは、「LDKの幻想」ともいえるこうした固定概念を捨て、家族を真に幸福にする家の形について考えなくてはいけない場面に直面しているのではないでしょうか。
家は家族の記憶装置
古い神社仏閣を改修工事する際、梁や板に書きつけられた職人のいたずら書きや、ラブレターのようなものが発見されることがあります。建造されたころの貴重な歴史資料としてばかりでなく、その建物をつくった当時の人たちの肌の温もりを感じることができます。私たちが子供のころの家は、ほとんどが木の柱と土の壁でできていました。小学校唱歌にもあるように、家の中の柱に成長の印をつけ、兄弟が背比べをするといった風景がごく普通の家庭でも見られたものです。
また、私の友人は、彼の子供たちが兄弟喧嘩をしてこしらえた壁の穴をいまだに塞がずにとってあるといっていました。理由を聞いてみると、その穴を見るたびに喧嘩したときのこと、親父にしかられたことを思い出し、兄弟仲よくしなければいけないと思い出すのではないかというのです。
家には生活の記憶を蓄積するタイムカプセルのような働きもありますが、同時に、家族の営みを表現するキャンバスにもなります。子供の誕生を機に家づくりを決意した人であれば、誕生した子供の手型や足型を取ったタイルをはめ込むのもアイデアです。ガラス、絵画、陶芸、染色などの趣味をもっている人であれば、さまざまなところに趣味を埋め込むことができます。写真や絵を布地や陶板に焼き付ける技術もすすんでいますから、家族の写真や子供の絵を用いた独特のインテリアをデザインすることもできます。最近は民家の古材が高値で取引されていますが、先祖から伝わる古いものを上手に生かして家づくりをするのも面白いアイデアです。
その家を訪れた人が感動する、世界に一軒しかない家というのは、そこに住む家族の記憶、家族の思い、家族の営みが一杯詰まった家ではないかと思います。自分の家に対する愛着や誇りもそこから生まれてきます。広くて豪壮な邸宅よりも、家族の個性や営みが感じられる家こそが魅力的な家であると知ったとき、私たちの家づくりの可能性は広がり、豊かで創造的なものとなります。
家づくりといえば、とかく間取り、設備、デザインなどの「箱づくり」ばかりに興味が集中しがちですが、家族の歴史や趣味を家づくりにどう生かしていくかを考えるのは、より深く豊かな楽しみを味わうことにつながり、家に対する家族の愛着も深まっていくことでしょう。
もくじへ 次の文章を読む
※実際の書籍の内容とは異なる場合があります。 |