里山の小さな家のコンセプトになった「こもる」と「ひらく」は、わたしの生家、古い美濃の民家に起源を有します。これは古くて新しい価値でもあります。生家の間取りや感触さえ鮮明に記憶の中にあるので、先ずはこれを辿って見ましょう。
(1)配置と間取り
生家は江戸時代最終期に建てられた茅葺の大きくて粗末な平屋でした。この家は相ついで来襲した未曾有の超大型台風、1959年の伊勢湾台風と1961年の第2室戸台風でひどく傷み、亡父が建て替えたので今はありません。
玄関?の重い板戸をあけて中に入るとそこは暗くて広い土間。湿気た土の匂いがしていました。土間の上は暗い吹抜けで、粗けずりなすすけた架構がすべて見え、家がどのようにできているか、ひと目でわかるものでした。
吹抜けはそのまま大きな小屋裏空間につながり、妻の上部に三角形の煙出し。ここからむらさき色の煙が抜け、太陽と月と星、雪と雨、蝶々や蜂も出入りしました。屋根裏はネズミ、ヘビなどの棲家でもありました。家は煙出しを通じて自然界につながっていました。
梯子で暗い秘密めいた屋根裏へあがり,じっとしているだけで何ともいえないこもり感と安堵にひたされたものです。
家の中には豊かな空間と小宇宙がありました。
土間は奥まで続いていて「くど」と呼んでいた竈(カマド)があり、隣接して大きな水瓶。その東に味噌部屋、手前に薪置き場がありました。味噌部屋は食糧の貯蔵所。陽があたらず土間なので温湿度の変化が小さく穀物や野菜の貯蔵に適していました。今でいえば冷蔵庫。ここにはムカデ、シケ虫も棲んでいました。
土間の西側に4部屋の8畳和室が田の字形に隣接し、間仕切りに壁はなく、すべて障子、板戸、ふすまなどの建具で区画されていました。建具をはずせば32畳の部屋が15分でできあがり。婚姻、葬式、法事、祭りの当元など、催事に便利にできていました。
座敷の南は縁側で、冬と雨天以外は夜も開放されており、戸締りをしたことのない家でした。どの家も同じようなもので、究極の開放性は美濃地方の現実でした。実際、鍵のかかる建具はひとつもなかったのです!
子供のころ、家への出入りは縁側から。(わたしの母親はいまも座敷の縁側から出入りします。縁側は本来貴人客人専用の出入り口! でも美濃ではお構いなし)
ここには多用な機能がありました。近所のじいさんばあさんが話しこんだり、富山の薬売りの出店になったり、郵便配達が弁当をたべる場所、子供の遊び場、ばあさんの針仕事の場、学校の宿題もここで。
深い軒のおかげで、夏は涼しい陰、冬は絶好の陽だまりになりました。小春日和の午後などはとりわけ居心地よく、とけるようにまどろむこともしばしばでした。
考えてみるとリビングという概念はむかしの民家にはなかったのですが、これにいちばん近かったのが縁側。
これが母屋でしたが、便所と風呂はそれぞれ独立した別棟に設けられていました。臭気と腐朽に対する知恵でしたが、不便と冬の生理的危険も同居していました。
深夜、射るような星や、遠いけだものの声が怖くて縁側からこっそり立小便。雪の翌朝あざやかな犯罪痕跡。
また雪の夜、風呂から裸で母屋へもどる小走りの肌に雪がかかり、一瞬の快感のうちに消えていきました。
戸外の便所と風呂の記憶が、いずれも雪につながっているのは冬が特別つらかったということでしょう。とりわけ老人には過酷な環境でした。
150坪弱の敷地に、母屋、はなれ、風呂場、便所、牛小屋、井戸館が配置され、庭には樹木を植えず、籾や麦を干したり、マメを脱穀したりする農作業場になっていました。庭は「カド」と呼んでいました。「カド」は「門」で庭先,門の周辺を指します。
裕福な家にはさらに蔵がありましたが、母屋の造りはどれも前述のようなもので、古い美濃の母屋といえば平屋の50坪〜60坪前後。特筆すべきものはなく、どの家も同じように大きくて粗末なものでした。
(2)構造
生家は自然の基礎石に直接柱をたてる立て柱式の軸組みでした。土台はありません。継ぎ手や仕口には釘やボルトなどの金属は使われていませんでした。屋根はもっと簡単で、丸太を三角形に組んで縄で結んだだけ。屋根だけ見れば縄文時代の小屋とほとんど同じでした。壁は極端に少なくスジカイも無し。家は石の上に乗っているだけでしたが、多くの美濃の民家は、あの濃尾地震に遭遇しながら百年前後の風雪に耐えました。
註:濃尾地震 明治24(1891)年10月28日。M8。美濃加茂市の推定震度6.0〜6.5。
死者7,273名。 全壊建物14万棟。直下型内陸地震としては史上最大。
構造はおどろくほど簡単で間取りも決まっており、大工は図面なしで家を建てました。建て主も「普請をたのむ」といえば家ができたのです。
修理も柱をとりかえるくらいは家族で出来たようで、祖父が基礎石の凸凹にあわせて柱の底部を鑿で削り仕口の穴を穿ったり、庭つづきの藪から竹を伐ってきて、これを手際よく割竹にととのえ、手綯の縄で小舞を編んで、山土を運んでワラスサを入れ、ドロだらけになって壁塗りをやった光景を記憶しています。
この一連の工程で、買った材料はひとつもありません。柱は自分の山からヒノキを伐採して製材所で挽きましたが、このほかに専門の職人に依頼した作業はなく、祖父は、樵、大工、左官の仕事をひとりで普通にこなしたのです。大工道具も一通り揃っており,鋸の目立てや鉋の砥ぎなども自分でやりました。特別器用でもなく、昔の人はたいていのことは自分でやったものです。このことは家の修理がこまめにできたことを示し、家の長寿につながりました。
屋根はムギワラの束を幾層にも重ねて縄でしばりつけて葺きました。葺き替えは近在の人々を頼んで素人だけでやりました。屋根葺きのプロはいなかったのです。茅を全部取り外すと構造が丸見え。別に大工でなくてもできそうなものでした。そう、家は「建築」でもなく、専門家だけが造るものでもなかったのです。
茅の厚さは50センチにもなり究極の断熱。茅葺屋根は、梅雨にたっぷりと水分を含み、真夏にすこしずつ蒸発して気化熱を奪い、家を冷やしてくれます。この話は半信半疑と思いますが茅葺屋根の保水力はとても大きく、どの家の屋根にも草!が生えていました。
茅葺屋根の夏の涼しさは、エアコンの涼しさとはまるで異なるもので、きめのこまかい秘めやかな冷気が肌を癒してくれました。
構造の特徴は、材料の大きさ、シンプルさ、壁の少なさに尽きます。壁は東西の妻側にあるだけで北面と南面にはほとんど無かった! 現行の木造住宅の構造基準が、耐力壁の量によることを考えるとずいぶん大胆でした。室内はもっと極端で、間仕切りには基本的に壁はなかったといえます。当時は土壁板壁しかなく、もちろん耐力壁ではありません。あんなものに耐震性があるとはだれも考えず、家の強さを材の質と太さ、仕口の堅固さに求めました。
ヒノキ御殿といいますが、柱にヒノキの心材を使えばシロアリの被害は大きく低減できます。当たり前ともいえる材の選択で、こうした知恵は大工に限らず村の生活者皆が知っていました。
少年時代の生家の記憶は、里山の小さな家を自分で設計する動機のひとつになりました。
(3)家の形成と暮らし
このような美濃の民家を形成した生活を簡単に概観しておきましょう。わたしは戦後直後の生まれで、当時の農村の自給的な生活をすこし覚えているので四季の情景をまじえながら綴っておきます。
美濃の民家は、自作農を機軸とする生存と生産と催事の機能を集合した器でした。個室はなく、世帯主夫婦の寝室もふすまと板戸で仕切られただけ。こうした家に世帯主夫婦、大勢の子供、老夫婦、小姑など、10人前後がひしめくように暮らし、家族全員で農業に従事していました。
家が持っていた催事場としての機能を、老衰で逝った祖父のお葬式を通して紹介しておきましょう。
秋の夕暮れ、障子の隙間から西陽がさすと歯がせりだして息が止まり、祖父は親族縁者に看取られて死体になりました。
こりともしない親切
寡黙で上機嫌
無愛想で寛容
板についた折り目正しさ
当時の多くの老人に見られた古人の気骨と風格を、彼も現代人とは異質な無表情に内在していました。その美徳に老醜がきざしたころが彼の然るべき秋でした。
すぐに村人たちがやってきて葬儀の段取りと役割分担を打合せ、夜ふけて帰っていきました。人々は翌早朝に集まって建具をはずし、掃除をし、幕を張り、あっという間に家の内外に葬儀場をつくりあげました。
土葬でした。
家を見おろす小高い丘の頂にある墓地まで、抜けるような雨上がりの秋空の下、親族縁者が歩いて送りました。
山道に野菊がゆれ、里山はツタ、モミジ、クヌギ、ウルシなど、雑木の紅葉が透明な風にかがやいていました。
人々は故人の他愛もない思い出を語ってつつましく笑いました。まわりで子供たちがはしゃぎました。墓地から茅葺の佇まいが見えました。
その光景には、死の親しさ、不可避なことへの静かな受容、そして一種の華やぎと安堵とが、おだやかな里山の佇まいと渾然一体となって、成文化できないが、あるたしかな共同の心性を形成しているように思われました。
里山の盛夏はおとなも夏休み。
朝夕に屋敷まわりの草刈り、たんぼの水を見まわる程度で、日中は昼寝や世間話ですごし、井戸水にスイカを冷やし、ミョウガを肴にちょっと一杯、気が向けばせせらぎでアユやウナギ獲り。慎ましくおだやかに、お盆前後をゆったりと過ごしました。
夏の夕暮れは涼しい風が吹きわたりました。みどりの山裾にくすんだ茅葺の家々が伏せるように点在し、屋根からむらさきの煙があがり、静かにたなびいて暮れていきました。
夜は和室に蚊帳を吊って窓は開け放して寝ましたが、夜明けは盛夏でも肌寒いくらいに気温が下がりました。
収穫が終る初冬から春先まで、人々は近くの里山で落葉を集め、枯れ枝を拾い、木を伐って薪をつくり、一年分の燃料をストックしました。冬の山中は明るく暖かく清潔で、いつも人の気配があり、子供にも親しい遊び場でした。
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